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石井芳征(美術ライター)
美術出版社『美術手帖』2004年9月号 P169 - 173 「アクリリックスワールド23」


「私の中にあるたくさんの記憶はどれだけ事実のまま保存されているんだろう?気持と感情で揺れてぶれてむらやひずみが出てくるような記憶しか持たない私は写真への憧憬を持ち、事実のままの記憶を持ち続けられる二郎は写真への興味などないってことなんだろうか?」 
舞城王太郎「駒月万紀子」


 人の記憶というものは、とても頼りなくあてにならないものだ。確固としたカタチを保ち続ける保証はどこにもない。状況や心の状態によって無意識に、都合よくねじ曲げられ、ゆがみ、変質していく。この不安定な記憶というものを何とか確実なものにしたいという欲求から、写真の客観性、変わらなさは望まれ、受け入れられてきた。でも欲張りなもので、人はその頼りなさ、不確実さをどこかで肯定し、愛してもいる。それが全く消えてしまうことを望んではいない。印画紙に焼き付いたものと心に焼き付いたもの、記録と記憶の違い。言い古されているかもしれないが、人は実感(リアリティー)をどうしても追い求めてしまう地球上で唯一の生き物だ。

 東亭順の絵画(?)もまた記憶というものの実感(リアリティー)を扱っている。?マークがつくのは、その特異な制作方法ゆえである。写真(印画紙あるいはデジタルプリント)をパネルやキャンバスに貼り、その上にアクリル絵具で着彩した後、メディウムを画面全体に塗り透明の膜を載せ、目の細かいヤスリで研磨する。平らになった面の上から再び着彩、メディウムを塗り、磨く。この工程を何度も繰り返し最終的にニスを塗りまた磨く。磨かれることで筆触は消えて、表面はまるで大理石のような光沢を持つ。描かれたものという印象は薄い。薄く薄く幾層にも重なった半透明の色の層は、その下の色、そのまた下の色を透かして、一つの風景を立体的に立ち上げる。何百分の一ミリとかの、視覚では認識不能な物質的な厚みによって生まれた遠近法とは異なる遠さは、その成り立ちを知らない観者の視覚に不思議な距離感をもたらす。

 「写真自体を信用してないっていうか。焼いたものは、自分の見ていたもの、記憶とズレてるんですよね。だから『記録』に自分の『記憶』を付け足すっていうか、こっちのほうがあってるだろみたいな。写真自体をいじることで正確な、っていったら変ですけど、自分の『記憶』に近いものを『記録』していく。写真のようにツルツルの表面に仕上げるのも、一点ものの写真みたいな感じにしたいってのがあるのかもしれない」。

 「一点ものの写真」。複製可能な写真という認識とは矛盾するこの言葉は、東亭の作品の本質を言い表している。東亭は記録としての風景を、その時自分の中に写った個人の記憶へ近づけていくために、修正を施す。記録は、色の層を重ねていくうちに目の前から消失し、記憶へと変容していく。「記憶の記録」、複製不可能な「一点ものの写真」のような絵はこうして生まれる。

 ロンドン滞在時に経験した、日本との気候の違い、湿度や刻々と変化していく雲の動きの早さ、大気が身体に伝える感覚の経験は、それまで人体をモチーフに、肌の持つ潤いや触感といった感覚的記憶を描いてきた東亭にとって、記憶というテーマをより意識的に考えさせるきっかけになった。水気を含んだ大気の重なり、移り変わってゆく風景、不確かな記憶のイメージは東亭の心を捉えた。

 「僕個人の真実というのは、社会的、客観的事実という視点から見れば、誤ったものかもしれない。でもそれが僕にとっての真実だから……」。
 東亭の最近の関心は自分にとってのリアリティー、記憶を再現することからさらに一歩いい進んで、記憶の変化自体や、そのようなプロセスを、見る者が作品から直接的に感じるような作品をつくることにあるようだ。風景画の天地を逆さにすることで意図的に記憶に反転・変化を加えたり、幽かな線描を施したトレーシングペーパーや薄い布を重ね窓に貼り、透過する光という環境の不確実性を条件に加えたりすることで、イメージの曖昧さをより強調し、記憶の不確かさを体験させる装置のような作品などをてがけている。

 頼りなくいい加減な記憶を肯定し愛するように囁きかける東亭の作品は、個人のリアリティーが世界の真実とも、ほんの少しだけど、どこかでつながっているかもという希望の刹那を垣間見せてくれるのである。